祖母の命日を迎えて
スポンサードリンク
祖母の死から17年
2002年4月14日、最愛の祖母が亡くなった。
前日まで元気だった祖母が・・・
その日は母が祖母の住む長野へ遊びに行く日だった。
電車に乗っている母の携帯に親戚から電話が入った。
「バァちゃんが倒れて、病院に運ばれた。」
母から私にも連絡が入った。
昨日まで元気だったので、正直そんな大したことは無いのだろうと、そのまま仕事を続けていた。
2時間ほど経っただろうか、母から電話が入った。
「もうダメかもしれない」泣きながらそう伝える母。
何がなんだかわからず、「ふざけんなよ!何言ってるんだ!」と母に怒鳴ってしまった。一番つらいのは母なのに・・・
脳梗塞で倒れたらしい。住んでいるのが田舎も田舎で、病院までは車で40分かかるようなへんぴなところ。大好きな自然あふれる田舎。それが命取りになってしまった・・・
小脳へ続く太い血管が詰まってしまったらしい。
取り敢えず一命はとりとめたが、当然意識はない。
すぐに弟と長野へ向かった。
病室に着くと呼吸器を付けられた祖母の姿が。
その横では母が・・・
母も奇跡を信じ「ばぁちゃん、大好きな孫が来たよ!寝てる場合じゃないよ!」と何度も何度も声をかけたが目を開けることはなかった。
翌日も見舞いに行った。
呼吸器の脇にある機械から「ピーーーーー」という耳障りの音が・・・
医者が来た。
「残念ですが、自力で呼吸することが出来なくなりました。ご家族を呼んで下さい」
それから30分後、バァちゃんはあの世へ行ってしまった。
味わったことのない悲しみ
大の大人の男がこんなにも打ちひしがれるとは想像もしていなかった。
人目もはばからず泣いた。まさに号泣した。
バァちゃんが大好きだった。
女手一つで母と妹育て上げ、一人で旅館を切り盛りしていた。
まわりからは「女帝」なんて言われていたらしいが、世界一やさしいバァちゃんだった。
小学生のころは通信簿をもらったら、そのまま長野へ帰省した。
夏休みは30日間、冬休みは2週間、春休みは1週間、勿論GWも。
田舎から帰る時は、バァちゃんと別れたくなくて、毎回泣いた。
心残り
小さい頃は大きな休みのたびに帰っていたし、大学生になってからも旅館の手伝いをしたりして、バァちゃんとは年間60日以上は一緒にいたと思う。
でも・・・
社会人になり、忙しくなり、7年間も帰ることが出来なかった。
母からも「バァちゃんが会いたがってたよ」と言われていた。
結局この会社は辞めることになるのだが、もっと早く辞めていればよかった。
もっとバァちゃんと一緒にいればよかった・・・
それでも2001年にようやく帰ることが出来た。
「来年バァちゃん77歳だね。喜寿のお祝いにどこか行こうよ」
「じゃぁ北海道に行きたい」
そう、喜寿のお祝いに北海道に行くことを計画していた。
それなのに・・・・
消えることのない悲しみ
毎日毎日泣いた。
本当に毎晩夢を見た。
辛くて辛くて何も手につかなかった。
それでも「いつかは悲しみも癒えるさ」なんて思っていた。
癒えなかった。
17年たった今でも、思い出すと涙が出てくる。
(書いている今も涙が・・・)
これでいいんだ
最初は辛かった、最近ではこれでいいんだと思うようになった。
無理に悲しみから目をそらすことはない。
それくらい大好きだったんだから。
徐々に悲しみが薄れ、思い出す日が少なくなるなんて嫌だ。
僕はずっと悲しみを背負いながら、大好きなバァちゃんを思い出すんだ。
悲しいとしても、鮮明にバァちゃんのことを思い出せるのが今は幸せなんだ。
大好きなおばぁちゃんへ。
ひろきより。